ゴルバチョフを継いだボリスーエリツインもチェスターフィールドを着たが、ビキューナか少なくともカシミア製の贅沢なものだった。南米に生息する動物であるビキューナだと、通常1着のコートを仕立てるのに顎頭から30頭分の毛が必要とされる。成獣で2年ごとにわずか250グラムしか採れない貴重品で、それだけに大変に高価となる。ところがゴルバチョフは、古めかしい英国のカントリージェントルマンを連想させる素材で仕立てたコートを着ていた。しかもウェストをきっちり絞るのではなく、ゆったりとしたフィッティングになっていた。乱暴に言えば「もっさりしている」のだが、仔細に見ればゴルバチョフが並々ならぬセンスを身につけていることが浮かび上がる、そんなコートだった。「聖マルティヌスの慈愛」として知られるエピソードがある。今にして思えばゴルバチョフが着たコートは聖マルティヌスのマントと逆説的な意味で重なり合う。とある市門を通りかかったマルティヌスは、裸の男と出逢う。マルティヌスは男を哀れみ、剣を抜くやまとっていたマントをふたつに切り裂き、半分を男にあたえるのである。パリ国立図書館が所蔵する聖マルティヌスの慈愛を描いた絵を見ると、マントに裏打ちされているのが黒海北部などで捕れる栗鼠の毛皮で、それも冬毛であることが明らかだ。じつに高価なマントをマルティヌスはまとっていた。